ZEPPET STOREは歌詞が
英語というイメージが強かったのですが、今回は日本語詞のためダイレクトに心に響いてきます。
この歌詞をじっくり見ながら曲を聴くとなんだか切なくなります。
ぜひ聴いて欲しいです。
タイトル曲はアルバム[GOOSEFRESH]にも収録されているので、これだけを聴くならアルバムでもいいと思います。
しかし!このマキシの素晴らしい所は、ライブではすでに定番の傑作!英詞曲[PARANOID]と、マンスフィールド池田政典氏の絶妙なRemixヴァージョンが入っている事+CDエクストラに[EMOT
ION][DISTANCE]のビデオクリップが丸々収められていることです!(*ただしビデオクリップは初回版のみだそうですが)ということで、音に関しては文句なしに☆5つ、ですが…唯一残念なのは
ジャケットが地味なんですよねf^_^;;でも本当に曲は素晴らしいので絶対買って損はないと思います。
柳田国男。我が国が誇る民俗学者。「遠野物語」をはじめ膨大な著作をものした大学者であることは知っていたが、その柳田国男の「伝記」を読んだのは今回が初めてである。正確に言うと本書は二部構成になっていて、前半の3分の1が伝記であり、後半の3分の2は「柳田国男の思想」と題した彼の思想紹介になっている。
「遠野物語」などを書いたのだから、私はてっきり柳田国男は文学部卒での学者であると思っていたら、彼は東京帝国大学法学部卒で農商務省(現在の経済産業省と農林水産省の前身)に就職したバリバリのキャリア官僚だった。彼が東京帝国大学法学部を卒業したのが1900年で、彼は農商務省農務局農政課に配属される。彼が農政課に居たのはわずか1年半で、その後すぐに、いきなり法制局参事官に出世する。参事官と言えば課長級以上のポストで、現在なら参事官になるには最低でも20年以上の勤務経験が必要である。幾ら100年以上前とはいえ、当時の高級官僚の出世のスピードは、正に音速並みである。柳田国男は当時の政官界を支配した山縣有朋の系譜に属し、順調なキャリア官僚生活を送っているかに見えた。ところが山縣系ということが彼の人生にとってはマイナスに作用してしまう。柳田は貴族院の書記官長にまで出世していたのだが、徳川慶喜に続く第16代徳川宗家当主にして貴族院議長の徳川家達との確執がもとで辞職に追い込まれてしまうのである。形の上では依願退職だが、実際には政治の天才原敬からの圧力もあり、実質的には解雇も同然であったという。時に44歳。その後、当時の落ちこぼれエリートの一時避難所みたいな場所だった朝日新聞の客員になったり、慶應大学の講師を務めたりしていたが、柳田が本格的に民俗学の研究に打ち込む決意をしたのは関東大震災を受けての1923年、48歳の時だったというから驚く。人間、学問的業績を残すのにあたり年齢はあまり関係ないのかもしれないと思わずにはいられない。
ただ、その後の柳田国男の歩みを見ていると、確かに頭脳明晰で学問に対する燃えるような情熱をもっていた大学者であったことは間違いないのだが、性格的にはかなり問題のある人間であったようにおもえる。一言でいえば狷介な性格の人間で、自分が一番偉いと思っている節があり、周囲と喧嘩ばかりして敵を作ってしまう人間に思えてならないのである。そもそも幸福だったはずの高級官僚生活を突如中断せざるをえなかったのも徳川家達貴族院議長との確執である。それだけではない。日本の民俗学研究を共に極めようとした学者たちとの関係を次々とこじらせ、同人誌等を休刊あるいは廃刊に追い込んでいるのである。岡正雄との関係がこじれて同人誌「民族」が休刊になったほか、長年柳田国男に付き従っていた折口信夫とも大喧嘩して疎遠になり、「民族」休刊後に折口、岡、金田一京助らが組織した「民俗学会」とも距離を置きかかわろうとしていない。おまけに満洲事変以後軍部に擦り寄った朝日新聞に嫌気がさし、朝日新聞も退社してしまう。その後、再び民俗学の組織化に動こうともするのだが、日本の本格的な民俗学、人類学の創始者となる岡正雄や石田英一郎などとは意見が衝突し喧嘩別れしてしまうのである。なんともはや、付き合い憎いそばには居て欲しくない人物であったことは、どうやら間違いなさそうだ。
さて、次に柳田国男の思想について、その一端を紹介する。著者の川田教授は、この柳田国男の思想に大いに共鳴しているようであり、そのことをあちこちの著作でも紹介しており、だからこそ本書を執筆したのだろうが、結論から言うと私は川田教授が紹介する柳田国男の思想は間違っていると思うし、全く共感しない。
農林水産省が掲げる日本の農業政策の根幹には自作農中心主義というのがある。それには戦前の大土地所有と不在地主に搾取され農村農民が窮乏していたことへの深い反省がある。本書によれば大正当時の日本の農地の約半分は地主から小作人が借地して耕作しており、農民の3分の2が、この地主から借地して耕作する小作民で、その借地量は収穫高の50%にものぼっていたという。しかも小作人が耕す耕地の面積は平均1町歩(約1ヘクタール)で、だからこそ当時の農村では出稼ぎや兼業(蚕の飼育など)が一般化していたという。こうした農村絶対窮乏化の状況を憂い、何とか農村を自作農民によって担われるようにしたいと柳田は考えたのだという。更に柳田は土地を所有し、かつ、それを耕作する自作農が最も土地への定着性が強く、従ってその家が当該地域における氏神社の祭祀主体として安定的に地域を担う担い手になるとも考えたという。しかし、現在の農村の実態を知る私の目から見ると、この柳田の思想は自作農を過度に美化した妄想に近いものだったと断定せざるを得ない。戦後の農地改革で約193万ヘクタールの農地が実質的に地主から没収されて小作人に下げ渡されたのだが、この下げ渡された農地のほぼ全てに匹敵する面積が売却され小作農であった貧農は何時の間にか土地成金に変身し武家屋敷のような大邸宅を構えている。バブル期に農地を売りそこなった農村の子倅たちの多くも都会に出て営農を放棄し、後に残された農地の多くは耕作放棄地と化して、現在その面積は滋賀県にほぼ匹敵するまでになっている。この現状を柳田国男に是非見せたいものである。
更にひどいのが柳田国男の日本経済観だ。排他的な植民地形成を通じて自国産業の振興を図ろうとした山縣有朋の政策を批判した原敬や浜口雄幸は日本産業及び日本経済の体質を改革し、自由貿易・自由競争を通じて中国本土で欧米諸国と競争し市場を獲得することで発展する道を選ぼうとした。しかしこうした自由貿易を通じて国民経済を輸出主導型に改革することに柳田国男は批判的であったと著者の川田教授は紹介する。柳田国男曰く、今後ますます海外の市場や資源に頼る方向をたどれば、現在の国際状況の中では結局はさらに中国への進出をおしすすめ、中国をめぐってアメリカ、イギリスなどと争うことになるばかりでなく、中国の人々とも対立することになる。そのことは長期的にみて日本の将来を危うくしかねない。従って、柳田国男は日本経済の編成そのものを、輸出貿易型の産業構造から内需志向型・自給自足型の産業構造に抜本的に変化すべきだと考えた。その為には農村の現状を改革し小作人中心から自作農創設に向かって農村の所得水準を引き上げるべきだというのは上記の通りだが、更に柳田は踏み込んで日本人の価値体系、生活様式そのものを根本から見直すべきだと説く。日本人は生き方を見直し人生の価値、生きる意味を、原点に立ち戻って考え直し、国土狭隘で資源に乏しい日本の現実を直視すべきだとする。確かに豊かな生活は重要である。しかし豊かな生活とは結局は多くのモノでありエネルギーを消費する生活である。しかし人間の豊かさとはそれだけではない。人間が生きていくうえでの必需品や一定のサービスは必要だが、欧米人の真似をして無制限に欲望を解放し消費を拡大する方向に向かうことが果たして本当に幸せなのかと柳田は説くのである。むしろそうした欧米的消費一辺倒主義と根本から見直し、経済をむやみに拡大し消費を拡大する現在の思考を根本から見直すべきだと柳田は考えたのだそうだ。
上記の柳田の思想を川田教授は本書でも繰り返し紹介しているし、他の著作の中でも書いている。しかし、この部分を読んで「柳田国男という男は経済がまるで分かっていないバカだ」と確信した。華美を排し質素を旨とし、自然と調和する暮らしというものを個人として追求するのは勝手である。付き合わされる子どもや奥さんは大変だろうが、米国にはアーミッシュなる奇怪な集団さえ存在する。しかし、しかしである。国家がその方針として、こうした反消費社会的自然主義的経済政策を打ち出せば、それは強烈なデフレ効果をもたらし、経済産業を破壊し、膨大な失業者を生み、飢餓が社会全体を覆うことになることを私たちは何度も見てきたのである。こういうヒッピーや反原発団体の一部が掲げる「自然主義志向」を、大真面目に考えていたのだとしたら、柳田国男という男は、所詮はカネ持ちのボンボンであり経済の実相を知らないバカに過ぎなかったと断ぜざるを得ない。さらにいえば、こういう柳田国男の言説を「諸君、大柳田先生もこうおっしゃっているんだぞ。アメリカのサルまねをして消費生活を満喫しTPP加盟推進などそていると日本が滅びるぞ」とでも言わんばかりの川田という「大学教授」は日本の立ち位置であり経済というのがまるでわかっていない大バカ者に見えるのだが、どうだろう。
人間社会とは不思議なものであり、善が悪となり、悪が善となるものなのだ。この経済社会の不思議さを受け入れられない真面目人間であるかぎり、経済を理解することは出来ないであろう。