子規句集 (岩波文庫)
子規の本を読んだのは初めてです。昔は文学をやっていたのに、情けない。。。
芭蕉、蕪村、子規の句集まで読んできたけれど、この本なら子規初心者でも
読めると思います。なにか切迫したような、つましさを感じました。
一筋縄ではいかない芭蕉、明るい色調の蕪村でしたが、子規は孤独で
なにかを見据えたようだったのが、第一印象です。
歌人の心情を詠んで偲ぶ。 覚えておきたい短歌150選
今回このCDを購入してとてもよかったと思います。昔教科書で学んだ幾つかの歌も、このCDの朗読を聴いていると新たな発見が必ずあります。
それと知らなかった歌も突然その味わいに驚くことがあります。今回当たり前かもしれませんが、いかに与謝野晶子が天才であったかを知ることが出来ました。若い皆さんにはとてもお勧めできますし、私のような中年ビジネスマンにももってこいです。毎日通勤の車の中で何度も聞いています。聞くたびに深くなる味わい・・きっとあなたにも新たな出会いがあるはず・・。もっともっと知りたくなる・・そういうきっかけを与えてくれるCDです。
仰臥漫録 (岩波文庫)
正岡子規さんの闘病日記。
最初から発表されることを前提にせずに書かれている所為か、
本当に生々しい記録です。
この本を書かれた35歳の子規さんは、すでに両の肺が空洞であり
生きているのが不思議と医師に言わしめたほどであり(あとがきより)
全身から膿が噴出すありさま。
身動きもとれず、生きながら肉体が腐敗していくさま、
介護する母妹への愚痴(病人の利己が垣間見える)
そして生きるための食う日々、その食事の数、
もはや食べることも苦痛なのに必死で食べる。生きることが苦痛なのに生きようとする。
そして毎日のように人に会う。
他人に対する対抗心もあれば、自殺することも考える。
おそらく息をするのも苦痛だったろうし、この文を書くことも苦痛だったろう。
けれど、この文は後世に残った。
今の社会が地獄であっても健康である限り、それは幸せなのだ。
生きたくても生きれなかった人がここに居る。
この本を読んだ時、思いっきり顔をぶん殴られた感じを受けた。
病牀六尺 (岩波文庫)
子規最後の日々を綴った随想。1902年9月19日没、享年34歳。
昨年暮れ以来、尊敬する人を二人亡くした。神経解剖学者の萬年甫先生、そして評論家・吉田秀和氏。萬年先生は先週、同じく尊敬するご令弟にお悔やみを申し上げたところ「もう年ですから」とのお返事であったが、偉大な知性をこの世から失うことはひとつの文化の消滅であり、大いなる社会的損失と思う。まして早世した子規にあっては、恐らくその天才の完成を待たぬ永別である。もっとも古今同様の例は無数にあり、それが世の摂理かとも思うが、偉人の死は常に惜しい。
「強健な精神が病弱な身体に囚われたとき」(解説p.189)、人は何を思い、目前に迫った死に如何に処するか。本書は、衰弱の一途にあっても猶旺盛な好奇心を保ち続けた一個の知識人を描くが、同時にまた病苦に苛まれ喘ぐ姿をも隠してはいない。明と暗との交錯。しかし死の恐怖は見えず、そこにかえって苦悶の大きさが偲ばれる。新聞に連載されたという文体は平明な名文で、現代人も何ら支障なく読める。
以下は現代からみた感想であり本作品を傷つける意図は毛頭ない。
すなわち、知識人も万能ではない、ということである。メディアで専門外の意見を得々と語るいわゆる「文化人」のおぞましさ。学習塾を廃止すべきと主張したノーベル賞学者の思慮のなさに、失笑を通り越して怒りを覚えたこともある。子規の論も同様に、素人の浅慮をしばしば免れ得ていない。また銃猟を認容する子規の「残酷」についての弁明は(p.9~, p.53~)、狩られる側の痛みに配慮しない、罪悪感のすり替えに過ぎない(昨今の「地球に優しい」という環境破壊の免罪符も、要は「やや手加減して殴る」ということでしかないのだ)。女性の学問(p.106~)についても得手勝手な論理である。専門家は専門以外には謙虚であるべきで、すべて知識人は厳しく自戒すべきであると改めて思った。