「蟹工船」は極寒の海上で蟹を獲る労働者と学生らの姿を描いた作品、 「一九二八・三・一五」は共産党の摘発と当局による拷問を描いた作品である。
「労働」および「アカの運動」を分かり易い物語に仕立て上げた作者の技量は非常に高い。 共産主義が結局失敗であったのは周知の通りであるし、本作がシンパを増やす為の道具であったのは事実であろうけれど、 そういう政治的な意味合いのみで片づけられない物語がここにある。
「蟹工船」の限界は「労働者の物語」ではなくて「知識人の労働者ごっこの物語」の感がどうしても拭えない点であろうか。 ここで言う知識人とは、普通の労働者らとともに船に乗り込んだ「学生上がり」のことである。 学生上がりが蟹工船に乗り組んだ理由は明らかにされず、 物語が後半になると、学生を中心とした監督への抵抗運動になる。
勿論、現実を現実のまま小説に表す必要などはない。 けれども学生が労働者の組織化に勢を出したり、気取ってドストエフスキーの小説を引用したりする下りを読んでいると、 過酷な労働環境にしては妙な余裕があるように感じてしまう。闘争というより一種のゲームのように見える。 読む前は救いようのないほど悲惨な小説かと思っていたのだが、意外と骨組はシンプルな勧善懲悪譚であるようだった。
然し、上述の知識人の労働者ごっこっぽいところを差し引いても素晴しい作品であると思う。 北国の人々の風俗・言葉、よく取材して描かれたと思われる海上事情は今読んでも色褪せない。 ただ最後のオチについては、実現可能性について日本海軍に詳しい方に尋ねてみたいところ。
学生時代の思い出です。 こんな時代もあったのです。確か弾圧されたのですね。
蟹を獲って船の中で缶詰に加工する。それが彼ら(労働者)に与えられた仕事。 しかしその実態は。。。。 およそ人間扱いされない彼ら。 軍事国家の当時、小説を発表した原作者は拷問の末命を落としたそうです。
戦前の蟹工船が舞台ですが、映画が撮影されたのは、1950年代、昭和20年代。戦争が終わってまだ数年のころ。 昭和のニッポン男児が演じる「蟹工船」を。。。。
フィルムにキズと、画面が揺れたりしています。白黒です。
戦前〜戦後にかけて労働運動が盛んだった時代に、労働者の団結と意識向上のため、 労働組合や労働闘争で唄われた歌を集めた一枚。文学の蟹工船とは直接の関係はない。
偶然聴いたこの一枚だが、我々の祖先がアコーディオン片手に、労働の現場でこのような歌を 唄っていた民衆史があったのだと初めて知って、なかなか面白かった。基本的には陽気で力強く 労働を讃える、あるいは明日のよりよい社会のヴィジョンをみせるような、前向きな歌が多い。
”メーデーの歌”や”インターナショナル”のように壮大な物もあれば、”若者よ”や”俺たちゃ若者” のように日常からの意識改革を狙うもの(若者よ、体を鍛えておけ、なんて歌詞が実にユニーク) ”アゼルバイジャンの石油堀り”のようにユーモラスなものなど、レパートリーは様々。 曲によっては、社会主義国のプロパガンダで使われている曲のような前時代的な仰々しいのもある。
この多彩さから、まぎれも無くこれら労働歌が苦しい労働の中で娯楽であり、励みであり 生活を潤わしていたであろうことが感じられ、聴いているこちらの心も熱くなる。
日本からこのような文化が絶えてしまったのは残念な事だ。音楽のジャンルが多様化し、労働運動も 高度資本主義の進展の中で力を失ってしまったので仕方ないのであろう。 ただ今カラオケで歌われる、いわゆる青春パンクのような過度に前向きな音楽に、この労働歌の 精神は引き継がれているのかもしれないと思った。10年ぐらい前に、週刊金曜日で評者がモー娘。の ”Loveマシーン”を現代の労働歌と評していたのを思い出した。ただこのCDのような闘争の精神を歌で表現 できなくなってしまった現状は残念だね。非正規雇用が拡大し、階級が固定化しつつある今の日本にこそ 労働歌のようなとびっきり前向きで肉体的な闘争の精神が必要だな、と無責任なことを思う。
プロレタリア文学、というとまず出てくる作品だがなんだか取っつきにくい
感じがしてやっと最近手にしたが、こんなに生き生きとした面白い作品とは
思わなかった。船内の生々しい描写にも驚くが最後まで読ませる力を
この作品は持っている。資本家の労働者からの搾取という問題は今でも
解決されてはいないが、この作品が70年以上も命脈を保ち続けている
のはそのテーマ性よりも人間が描ききられているからではないだろう
か。同時収録の「党生活者」で敷衍される組織の問題にしても、まず
そこには人間がいる、ということを我々にまざまざと思い起こさせてく
れる。蟹甲船はプロレタリア文学というよりもまず文学として成功している。
これは作者にとっては本意なのであろうか・・。
|