イタリアの南部の田舎から北部の都市ミラノへ上京してきた家族の若い男たちに降りかかる運命のいたずらを名匠がぐいぐいと描きに描きつくす人生映画の傑作です。
美しい売春婦役アニー・ジラルド。そして彼女に魅了された次兄役レナート・サルバドーリと3男役のアラン・ドロンの因縁の恋と宿命の対決が見る者をくぎ付けにします。
己を振った女と弟が熱愛していると知ったサルバドーリが、ドロンの目の前でジラルドを強姦するシーン(脱がせたパンテイーを振りかざす!)や、大嫌いなはずのサルバドーリの強引な求愛に思いとはうらはらに身体が応じてしまう場面。
それとは対照的に、うぶなドロンの純情にほだされて堅気に戻ったジラルドが、生まれて初めての恋に身を焼かれ、2人でミラノの市電に乗る「映画史上もっとも美しい」数秒間。
ドロンから兄のために身を引くと告げられたジラルドが、絶望に駆られて走り去るドウモの屋根の大俯瞰。そして「死にたくない」と叫びながら川のほとりで死んでいくジラルドの哀れな姿……。
こうやって書き出していくだけで、それらの名場面が瞼の奥で次々に甦ってくるようです。後年の重厚長大なヴィスコンティやドロンから喪われた、映画の青春時代の匂い立つような若々しさがこの1960年製造のモノクロフィルムには流れているようです。
バーリ発ミラノ行きの汽車で田舎町から都会へやってきた家族の物語。
あんな母親持ったら疲れるだろうな、と思えてくる。
己の子供への依存を信頼という言葉に挿げ替える。
今でこそオバケのようになってしまったクラウディアカル
ディナーレの美しさには目を見張るものがある。
登場人物のほとんどが喋るだけの動物のようで大変。
ロッコが
「都会の生活に馴染めない。慣れたくないんだ」
というシーンはなかなか興味深い。
同じような葛藤を抱えて生きている人は今でも多いだろう。
問題の本質はそんなところではないのだが。
家族の中で唯一正しい判断が出来るチーロが末っ子に語りかけるシーンはそれまでのモヤモヤを全て吹き飛ばしてくれる。
ラストカットの末っ子が道路を歩いていく姿には未来への希望を感じさせていい終わり方でした。
著者はひきこもり治療の専門家なので本は嫌いではない。だがこの本の、若者は
渋谷系と
原宿系とに二極化している、という趣旨はわからない。
1.
渋谷系とは自分探し系ともいい、社交性は高いが一人でいられず、携
帯電話などで常に人と繋がりあっていないと気がすまない。容易に新興宗教や自己啓発セミナーなどにはまりやすい。
2.
原宿系とはひきこもり系ともいい、社交性が低く人付き合いが苦手。一人でいることが平気であり、「ひきこもる」能力を持っている。新興宗教に入るというより自分が新興宗教の教祖になりたいぐらいのタイプ。
かつての区分1が外交的、2が内向的とはどう違うのか? 新しい定義をわざわざ持ち出す、その理由がはっきりと書かれていない。