ダーティ・ダンシング コレクターズ・エディション (初回限定生産) [DVD]
この映画を十年ぶりくらいに見て今30歳越えてダンスを始めました。この映画のラストダンスをまず踊りたいと我が儘ですが習っています。人と向き合う事や誰か相手がいて何かを作り上げる楽しさを子供の頃のように楽しんでやってます。新しいことを始める事が怖くなっていましたが背中を押してくれた映画です。パトリックスゥエイジは残念ですが彼の魂が伝わる傑作です。ずっと大切に見て行きたいです
宇野功芳の「クラシックの聴き方」
何事も最初に始めた人は偉大だ。会社でも、創業者は必ず立派であろうが(少なくともどこか立派なところがあろう)、2代目以降が立派などというのは滅多にない(大企業では、岡山の旧倉敷紡績くらいだろう! 中小企業は、それでもいくらかあるだろうが、決して多いというわけでもあるまい)。
宇野功芳はニッポンで最初にブルックナー作品の真価を、その「聴き方」を世に知らしめた音楽批評家だ。吉田秀和は渡欧したとき、クナッパーツブッシュのブルックナー第7を聴きながら眠っていたのだ(それを率直に吐露する吉田はやっぱり偉い)。
1930年生まれの宇野こそが、ブルックナーの聴き方を教えてくれたのだ。
今でこそ多くの批評家がブルックナーを論じる。しかし、宇野がいなければ今日のブルックナー理解はなかったかもしれない。朝比奈隆がいなければ、ではない。宇野功芳がいなければだ。このことはおそらく、いくら強調しても、し過ぎることはないだろう。
本書は最近書き下ろし本を書かなくなったと思しき宇野の、語り下ろしと雑誌連載をまとめたものだ。同い年の石井宏が活発に書き下ろしているのに、誠に残念なことである。指揮活動が忙しいのだろうか。宇野には現代の疲弊したクラシック音楽業界への多くの提言ができるはずなのに。
最近では40歳台の批評家が結構露出しているが、まだまだ説得力がないように同じ年代の評者などには見える。宇野には、まだまだ老け込んで欲しくない。新しいブルックナー論、『ベートーヴェンの名盤』の最新版(かつて音楽之友社から出ていた物の)、ショスタコーヴィチ論・・・いずれも待望の企画ではなかろうか。
宇野に教わった名盤は、いまだに聴き続けているものが多い。古くならないものが多いのだ。シュナイト盤『聖母マリア』、マウエルスベルガー盤『十字架上のイエス7つのことば』(シュッツ)、アーベントロートの『合唱』、そして本書でのエリー・ナイ、ロベルト・ホルの『冬の旅』などなど。
しかも、名盤紹介に留まらない作品自体へ肉薄することば。それは常に演奏に即して、音楽理論がわからない者にも届くことばで書かれているのだ。
ショスタコーヴィチなどでは、宇野の推奨盤に首を傾げることもあるが、とにかくもっともっと書いて欲しい。反・宇野派もそう願っていることは、おそらく間違いないだろうから。
ブラームス:交響曲第1番&第2番&第3番&第4番
同時にビデオ撮影も進行したという第2番ニ長調、第1番ハ短調は(録音はこの順番で行われました)、文句なしに「カラヤン美学の集大成」ともいう、文句のつけようのない素晴らしい名演奏です。
「流麗なレガートの美学」を根本原理としたカラヤンの音楽観にぴったりのニ長調は、最高級の絹糸のような繊細なピアニッシモから爆発的なフォルティッシモまでベルリン・フィルは一糸乱れぬ完全性を示しており、カラヤンの意図と一体となった驚くべき演奏と断言してよい。
元々十八番だったハ短調は(1961年頃のヴィーン・フィル盤もコンセプトは全く同じで、カラヤンのこの曲に対するヴィジョンが確固たるものであったことを示します)、ブラームスの堅固な構築と、徹底した「音楽の建築学者」でもあったカラヤンのヴィジョンが融合、ベルリン・フィルのメンバーも一心不乱に弾いています。「何事が起きたのか?」と慄然とせざるを得ない異様なほど重厚で意味深い第1楽章序奏部。冥界の門の前での孤独の対話のような第4楽章序奏がカタストローフ的崩落を遂げた後、静謐の中から聞こえてくる有名なホルンの感動的な呼びかけが聞こえたあたり、晩年のカラヤンならではの諦念の陰影が濃い。慣習的アッチェランドも全く自然だし、異常なまでに長く鳴らされる最後の和音は、あたかもこの世=この曲との別れを惜しむカラヤン自身の心情を吐露しているかのよう(音響自体は晩秋の夕暮れに吹き鳴らされるファンファーレのように非常に美しい)。ゴージャスなのに感動的。カラヤン美学の集大成と呼びたくなるゆえんです。
元々せかせかした演奏になりがちでカラヤンとは相性の悪い第3番ヘ長調に関しては、平均的なライブ録音のようで、全く面白くない(ベーム、バーンスタイン、ジュリーニとは比べ物にならない)。録音もオンマイクで、生々しいが気品に欠ける。
第4番ホ短調の80年代の録音でないそうですが、到底完璧にコントロールされているとは言えない(ベルリン・フィルとの関係も悪化の一途を辿っていましたからね)80年代の録音からすると期待できない。
というわけで、第1、第2に関しては、これらの曲の真髄に迫る超弩級の名演奏と断言しておきましょう。
ウィトゲンシュタイン 哲学宗教日記
研究書色が強い。
要は、前期哲学(『論考』)から後期哲学(『探求』)への移行の背景を、日記を覗き見る事で知ろうってのが出版者の思惑だろうか。これが日記と哲学メモとのいずれかと問われれば、やっぱり日記の方に属するだろう。
いかにもウィトゲンシュタインらしい、何とも共感し易い内容ではあるが、研究者ではないし、研究する意図も無い俺が読んでも、特に新しく得られる(有益な)情報というものは殆ど無かったと言える。
Bruckner: Symphonies 3-9, Te Deum, Mass in F Minor
ブルックナーの八番。
まるでその会場で同じ時を共有しているかのような錯覚にとらわれます。
終楽章の冒頭、弦がリズムを刻み、トロンボーンが歌い出した時、背中を何かが走りました。こんな感覚をCDで味わえるなんて。
部屋を真っ暗にして、高級なヘッドホンで聴くと陶酔できること間違いなし。