書かれる手 (平凡社ライブラリー)
本論にはないが、
宇佐美英治をめぐって、三浦雅士氏と堀江さんが、
巻末で語り合っている。
全く知らない者同士が、
ひとりの畏敬する人物に導かれるように、
文章を書いている、その巻末を読むだけでも
(もちろん本文も素晴しいが、)この本を
手にする価値は十二分にあると思う。
「幸せな出会い」は誰の心にも訴えかけるはずだ。
須賀敦子全集 第1巻 (河出文庫)
堀江敏幸のエッセイに追悼文の形で文章が収められていて、それが非常にこころがこもっていたので読んでみました。実は、恥ずかしながら須賀敦子の存在さえ堀江敏幸の文章を読むまで知らなかったのですが、あまりの素晴らしさに気持ちが震えました。イタリアに暮らした10数年の回想をまとめたものですが、様々な人との出会いと別れが、飾ることのない丁寧な文章で綴られています。ミラノに拠点を置いたカトリック左派のコルセア書店での交流を通して、印象に残ったひとびとの人生の一場面をイタリア(おもにミラノ)を背景に、決して近道を選ばず、おおげさに騒ぎたてもせず、しとやかにじっくり描きこまれています。それは、非常にリアルな細密描写ではなくて、印象派の画家たちの筆致に似ています。練りに練り、考えに考え、鍛えに鍛えたその文体は、全く過不足なく、読者たる私を勝手知ったる者のようにミラノの場面に誘います。「美しい日本語」とひとことでは片づけられない、でも紛れもなく美しい日本語が脳髄に沁み込む。どこが美しいのか文章を読み返しても定かには分からず、ただただ須賀氏の思いの深さに圧倒され、感動は深く深くこころの底にまで浸透していきます。あ〜、こんな文章を書くひとがいたんだという、私にとってはあまりにも遅い発見が腹立たしくもあり、本を読んでいて本当に良かったとしみじみと思います。
なずな
育児をテーマにした小説らしい、というのは読む前から知っていたのだけれど、著者の洗練された文体の印象から、「堀江敏幸」と「育児」が、わたしの頭のなかで、どうしても結びつかなかった。
読みはじめて、納得。
たしかにこれは「イクメン」の物語で、同時に、ファンにはたまらない堀江流スパイスがたっぷりかかった長編小説なのでした。
独身で、育児の経験もない主人公菱山が、ひょんなことから、生まれて間もない姪っ子、なずなを預かることに。
周囲の人を巻き込んで、男手ひとつで菱山の奮闘がつづく――という、あらすじにしてしまえばそれだけのストーリーなのだけれど、見事なのは、なずなを中心に人のつながりが生まれ主人公の周りの景色が変わっていく、そのディテールの描きかた。
「なずなが来てから私の身に起きた大きな変化のひとつは、周りがそれまでとちがった顔を見せるようになったことだ。こんなに狭い範囲でしか動いていないのに、じつにたくさんの、それも知らない人に声をかけられる」
昼夜の別ない授乳とオムツ替えで寝不足になりながら、ベビーカーを押して取材に出かけるうち、菱山は、今まで気づかなかったあたらしい町の表情を発見する。
主人公の脇をかためる魅力的な登場人物たちの存在に、「こんな町で子育てができたらいいなあ」と憧れさえ抱いてしまう。
なずなが初めて涙をこぼす。笑う。寝返りをうつ。喃語が出る。
その生命力に、周りの大人たちはひきつけられ、心を動かし、一喜一憂する。
そして菱山は思うのだ。
「世界の中心は、いま、《美津保》のベビーカーで眠るなずなの中にある」
4百ページを超える長編を最後まで読みきったら、何だか勇気が出て、夏に生まれてくる赤んぼうをむかえるのがすごく楽しみになった。
雪沼とその周辺 (新潮文庫)
「雪沼」という地名から連想される,”静けさ”に包まれた短編集です。”何も起こらない日々”が淡々と,しかし深く深く描かれています。老夫婦の会話のやり取りが中心の「送り火」・・・数十年前におきた息子の"事故死”を扱った作品ですが,心の底に常にわだかまる”あの時,あのようにすればよかった”という取り返しのつかない母親の後悔の気持ちがテーマになっています。でき過ぎたドラマのように,後悔をバネにして昇華していける人はきっと一握りのはず・・・ほとんどの人は「何とかしなければ」と思いつつ何もできないで,ズルズルと後悔の念だけひきずって生きているのではないでしょうか。どれだけ後悔しても決して消えない過去の傷と悲しみが癒えた後も向き合わざるをえない人たち・・・そのような人生を送る人に”強くなれ”とか”がんばれ”とか言うのではなく,声を潜めて静かに見つめている著者の視点に現実を肯定することの”強さ”を見ました。