まあ随分と女を馬鹿にした小説だなぁ、今日日の女性はこれを読んだら目を吊り上げて怒るだろうに、と思いながら読んでいたが、当書を常識的な感覚で読むこと自体が間違っている。あとがきで著者が、これは自分のための自慰小説だみたいなことを書いていたので、ああそうかそれもありだなとなぜかほっとした次第。
話の筋はというと、大財閥の令夫人が義理の娘の巻き添えとなって誘拐され、ワルい奴等にいろんな恥ずかしいことをされてしまうわけだが、その令夫人は顔も体も極上で教養もあれば気立ても優しいという、非の打ちどころ無い憎いお方。その他にも、空手二段の鉄火娘や限りなく純白純情なお嬢様(いずれも美女)も登場し事情あって囚われの身となり、あれもやられちゃうこれもやられちゃう。でもまだ1巻だから、今後もっと凄いことされるんだろうなあ。終わりの方で伝説の調教師もご登壇される由、しかし同じようなイタブりの状況をこうも飽きもせず飽きさせもせず書けるその粘着質。すごいです。
これから10巻分を読破するかどうか迷うところですが、少なくとも最終巻には挑戦しようと思っています。
旧
新潮文庫版の再販のようです。どれも自分を主人公とした作品のようですが、前後の話の辻褄がどうも作品の間ですっきり合わないので、私小説と理解した方がいいのかもしれません。どの作品にも、会話部分には、方言(特に関西弁)が多用され、ユーモラスな雰囲気を醸し出し、作品のテーマやフリルが本質的にもたらす緊張感をそれなりに和らげてくれます。しかし、どの作品も、過去への懐かしさと記憶のはかなさとその消滅の必然性を醸し出しています。
どの作品を通しても強調されるのは、著者の変えることができなかった本質的なノーマルさです。そして著者の、いつも変わらぬ客観性は著者の生煮えの「特異さ」を何度となく浮き彫りにしていきます。それに比べて、「鹿の園」の芦屋の実業家のスケールの大きさは著者を完膚なきまでに叩きのめします。このノーマルさと常識こそが著者の成功を可能ならしめたのかもしれません。「不貞の季節」なんていう時代がかった作品は、全編「コキュ」の告白といってもいいくらい、著者の情けなさが恥ずかしげもなく、読者に開陳されていきます。
最後の「妖花」は、60−70年代にかけての、日本のこの業界に集まったさまざまな人々の不思議なエネルギーの交錯を描いた見事な時代の一面史となっています。今も活躍中の人から亡くなった人々、そして引退した人々の奇妙な一時の関係が著者の恥や自慢も含めて語られていきます。