田村泰次郎の戦争文学―中国山西省での従軍体験から
文学研究の専門書ですが、先の戦争のルポルタージュとしても読めます。
田村泰次郎という作家の戦争小説が、基本的に戦史に忠実であり、自身の従軍体験に即して書かれていることを、舞台となった中国山西省周辺を実地調査して明らかにしている点が、この本の価値です。戦後60年余、ほぼタイムリミットを迎える中で著者がした仕事は貴重です。
肉体の悪魔・失われた男 (講談社文芸文庫)
田村泰次郎の名はその作品「肉体の門」と固く結びついている。それは1947年、著者が中国から復員して1年7ヶ月後に世に現れた。日本人は敗戦のショックに打ちのめされながらもまずは日々の食糧の確保に血眼だった。そこに現れた一つの現象は性を売り物にするいわゆる「カストリ雑誌」の盛行である。『肉体の門』は当時、そしておそらくはその後も、そのような時代風潮に迎合するものとして受け取られてきたのではないだろうか。この選集には「肉体の悪魔」「蝗」「渇く日々」「肉体の門」「霧」「失われた男」の6編が収録されている。そのうちの2編、中国戦線での慰安婦の輸送にかかわる「蝗」と最後の「失われた男」を除く残りはすべて1947年12月以前に書かれている。つまりここにあるのは著者の生々しい戦場体験、さらにはそれが血肉となった復員兵の心象、さらにはその目にうつる戦後の日本である。
すべての作品が戦場の記憶を映し出している。戦線の大局は掴みがたい。反面、描かれている多くの事件が著者の実体験を踏まえていることに疑いはない。「肉体の悪魔」は1942年の宣撫作戦に添っておりそこでは毛沢東を始めとする中共軍の幹部とともに「顎のところを弾丸がぬけたために」発音が明瞭でない'ケ小平が話題に上っている。しかし作品としておそらく最も完成度が高く、また「戦場で獣と化す」兵士を最も迫真的に描いているのは「失われた男」だろう。戦後19年目に初めて郷里を訪れた主人公はそこで往時の戦友であり相棒であった男の家を訪れる。野性化した犬の群れに囲まれ、今は生ける屍と化している友を彼は己の分身、己の「恥部」と意識して戦後を生きてきた。彼はその戦友の死を安堵の念をもって見守りながら自らの「存在の重み」が揺らぐのを実感する。「人間離れのした荒々しい肉欲と攻撃力」の最後の様相にはコンラッドの『闇の奥』の結末に通じるものがある。
肉体の門 [DVD]
ラストに、残った娼婦たちが、中盤では良くも悪くも快活で陽気だったのに、こすっからい目つきで客を漁る姿は、非常にリアルです。
宍戸&清順のコンビはとても良いです。「殺しの烙印」以外は(笑)