女ぎらい――ニッポンのミソジニー
上野 千鶴子の近刊 ニッポンのミソジニーを読みました。強い衝撃で近頃読んだどんな本よりも圧倒されました。最近の上野千鶴子は老いとその生き方をテーマに取り上げている傾向があると思っていましたが、本書では、著者本来のテーマである、ジェンター・フェミニズムを正面から取り上げています。社会学者は本書では「ミソジニー」と、「ホモソーシャル」という用語で性的二元性かなる現代社会のしくみを明快に論じています。
男達が性的関係を含まない集団「ホモソーシャル」を形成してそのなかでの自分達だけの世界を作り上げ、「おぬし、できるな」とお互いに認め合って連帯し、そのなかでランク付けをします。それのグループに意図的に入らないか、脱落せざるを得なかった残りの男や、全ての女達はグループから排除されます。それでも、排除した女達と性的関係を結ばざるを得ないたの自己矛盾から、男は「女性嫌悪」に陥ります。一方、女達はある年代から、自分が男である「主体」ではなく、男によって評価を受ける「客体」としての存在である女に属していることを、思い知らされ、「自己嫌悪」に陥ります。
本書の最終部分「ミソジニーは超えられるか」で、上野は「自分自身はミソジニーからは完全に自由だが、周囲の社会がそうでないから社会変革のために闘う人がいるとしたら、フェミニズムはもはや「自己解放の思想」ではなく、「社会変革の」ツールになるだけで、正義の押しつけであろう。ミソジニーはそれを知っている人からしか判定されないためである。」と論じています。私が永年抱えてきた疑問が、これでやっと氷解しました。フェミニズム=ジェンダー論とは男女を問わず自分と正しく認識して、性別やそれに伴って自明とされてきた多くの社会的桎梏から自分を解放していくための武器だったのです。
著者は男に対しても「ミソジニーを超える方法はたったひとつしかない。身体と身体性の支配者=主体者であることを止めることだ。そして身体性につながる性、妊娠、出産、子育てを女の領域と見なすのをやめることだ。」と応援し、方向を示します。
数10年前の高校生代、精神的な面でも先頭を行っていた級友の女性徒達が、次第に男に媚び、関心を持ってもらうよう変わっていく様をみて、「良妻賢母への道をあきらめて受け入れずにもう一度闘ってみること」という文を書いたことがありました。そのころからのリブ、フェミニズム、ジェンダー論は関心を持って接してきました。
でも、この本は自分でも意識していないか、あるいは考えくないため無意識に避けていた、自分のなかの深淵にある醜い欲望やミゾジニーを、白日のもとに引き出して見せてくれます。あるいは自分で引き出す手助けをしてくれます。その結果、自分の拠り所としてきたものを捨てる必要が生じるかもしれません。恐ろしい本でした。
私は理系に属していますが、社会科学の本当の凄さに思いしらされました。一回では全貌を理解できませんので、再読して「ミソジニーやホモソーシャル」である、自分の深部まで降りてみたいと考えました。
若い読者のための短編小説案内 (文春文庫)
本書は著者のアメリカの大学での講義内容をもとにして、日本で行った模擬講義を成文したものである。
吉行淳之介、安岡章太郎ら戦後に活躍したいわゆる「第三の新人」6人の短篇をテキストにして、小説の読み解き方を読者とともに考えてゆく構成である。文中に大まかなあらすじが記載されているので、テキストを読まずとも本書の趣旨を汲むことは出来るように配慮されている。
作家としての視点と深い考察は、読了後にテキストを読んでみたくなるほどの説得力を持っている。
冒頭には、文庫のための序文として、著者の短篇小説への関わり方を率直に語った文章が掲載されており、そちらも大いに興味深い内容である。
また巻末には、本文で紹介された作家の経歴だけでなく、手に入りづらくなったテキストを探すための案内もまとめられており、大変親切である。
暗室 (講談社文芸文庫)
「現代人に共感をよぶ部分があるとしたら、生の危うさ、死の不安を描いたところだろう」のような趣旨のことを作者は語っている。男と女にとっての性を題材にした作品を描き続けた作者の作品の中でも秀作として知られる作品である。所々に、航空機から眺められた歯のような情景、メダカを池に放つときの「死」を感じさせる描写など、印象的なエピソードが挿入され、複数の女性関係を必要とする主人公の「生への不安」が浮かび上がっている。性は文学の大きなテーマのひとつであるが、その中でも秀逸な作品と思われる。谷崎潤一郎ほどの甘口の文体ではなく、谷崎がちょっと苦手なわたくしでも大丈夫だった。