この本は、「弱者に対する嫌悪」が、誰にでもあることを、あなたに突きつける。
原典は、ナチス政権がホロコーストへと突き進む上で論拠となった、小冊子であるという。
内容を見ると、
ドイツが第一次世界大戦で敗戦し、その直後に書かれたということが、大きな影を落としている。
莫大な賠償を抱えた国家全体にとって、経済的負担になる存在を「生きるに値しない命」とさだめ、
とくに重度知的障碍者に対して、本人の意思のいかんにかかわらない安楽死を正当化する内容となっている。
本文を読んで、その論に、悪意を感じるか、それとも疑問を感じないか、それはご自身で確認いただきたい。
私は少なくとも、差別ありきの論理的飛躍に目を覆いたくなった。
たとえ、“障碍者一人当たり何マルクの国家的損失になっている”と、数字を持ち出されても。
本書の訳者・解説者は、この本で扱われる問題を、「安楽死」にのみ留めているが、それは法学者として誠実である。
しかし、疑り深く、あらゆることに怯えて生きている私は、それ以上の意味をこの本から感受してしまう。
国が傾いている状況において、より多くの国民を助けようとするならば、「健康な」「役に立つ」「問題のない」人間の命を優先して、
「病気の」「役に立たない」「異常な」人間の命を、無視するどころか、排除してしまうことも、人間は目を瞑ってしまうのだろうか。
トリアージは、「災害」という非常事態において、より助かる可能性がある生命に対して順序をつけるものだが、
それと同じような感覚で―いや、殺してしまうという点においてはより残酷な感覚で―病人、障碍者、高齢者などを、
国民の順序の下位に押しやってしまうことさえ、人間は平気で行ってしまえるものなのだろうか。
ワイマール共和制における
ドイツ国民は、当時の世界においても、決して教育水準の低い国民ではなかったはずなのに、である。
そして、悲劇は起きた。
この本を読むと、明らかに醜悪に思える「弱者に対する嫌悪」が、ある条件においては、何の疑問もなく正当化されることを、痛感させられる。
さて。
このような過ちが、二度と起きないなどと、私たちは言えるだろうか?