スタジオライブなので、物足りないかな?と思っていたのですが、「人に狙われるので、ライブには持っていかない」という1949年製マーチンD-28(素晴らしい音のする幻のギターです)1本で、高田渡さんが全曲弾き語り(バックミュージシャンは全く入りません)している様子は、なかなか見られない貴重なものだと思います。
長年のファンはもちろん、テレビでちょっと見て「不思議な人だな」と思っている人にも、一度じっくり聴いてみてほしいですね。
我々一般人は朝早く起きて、九時から五時まで仕事し、毎日毎日同じことを繰り返して、そうやってお金をもらって暮らしていかなければならないのです。内面的にはそれほどちゃんとした人間じゃないのに、皺のないピンと張った
スーツを着て、喋りたくも無い仕事場の人間とへらへら喋ってうわべの人間関係を築き上げ、その人間関係に基づいてお金をもらって暮らさなければならないのです。
そんな我々にとって、このDVDに描かれているタカダワタル的な人生はものすごく憧れてしまいます。でも、わかってるんです、どんなに憧れたって、タカダワタル的人生はタカダワタルという才能の上に成り立っているってことは。本当に、身にしみてわかってるんです、タカダワタル的生活の真似事をたった1週間でも続けようものなら、自分の生活なんてぼろぼろになってしまうっていうことは。憧れちゃいけない、羨ましがっちゃいけない、それはわかっているんです!!だけど、だけど、それでも憧れてしまう!!!
「タカダワタル的」、そんな名前の毒にとことんまで付き合って空になるまで飲み干す、そういう決心はきっとできないだろうなぁ…
自分が高田渡のうたを発見したのはそんなに昔のことではなかったが、以来、今に至るまで何百回聞いて飽きることがない。このボックスセットに収められているベルウッド時代の正規音源は、特に何度も何度も何度も聞き続けている。ここに収録されているうたたちに代わるものが、まるで見当たらないからだ。
「ごあいさつ」、「系図」、「石」、どのアルバムにも共通しているのは、高田渡自身の生理・習性・生き方から他の人々の実際の生き方に思いを馳せて、自分自身の心にそれを捉え返して、うたになった感情が詰まっている、ということだ。とはいっても、こうしてことばに何とか置き換えようとしても捉えきれない部分が多分に残ってしまうのが高田渡のうたの特徴になっている。
それでも捉えてみようとすると、例えば彼は、うたの中では他人に対する皮肉や悪口、当てこすりをほとんどしない。また、自分は凄いんだ、自分はえらいんだという、うたを一切うたわない。それに、上っ面の優しさや幸せもうたわないし、男女の恋愛をくどくど描写もしない。つまり総じて、今のJ−POPが持っている特徴がほとんどない。
では、どんなことをうたっているのかというと、世間の中で脇に追いやられてしまう人々が感じるうらぶれた気持ち、彼らこそが多く持っている慎ましさの美徳や他人への優しい心配り、したたかな強さと裏返しの脆さ、そんな日々の生活で少なからぬ人々に浮かぶ気持ちがうたになっている。歌詞は、高田渡自身が書いたものの他に金子光晴や山之口獏、ラングストン・ヒューズや永山則夫の詩を使用しているが、高田渡がギターを弾いてうたうときには、高田渡の名においてそれらのことばは一つの状況になり、気持ちになっていく。そんな彼のうたは、全てのJ−POPシンガーはもちろん、三上寛や加川良、シバ、友部正人など、同世代の偉大なフォークシンガーたちでさえ代わることの出来ない唯一のメディアだった。
高田渡が媒体として聞き手に届けてくれた感情は、今や日本語として聞き手に届く機会はほとんどない。自動車を作るようにプロセス化された楽曲生産システムは聞き手自身が元々保持している内面の感情の安定や価値づけを絶えず壊して奪っていき、特定の心情を植え付けて内面をより貧困化させ、商品を購買させつづける仕組みを内包している。高田渡のうたは、聞き手にそんなことをしない。代わりに、ひとが本来抱く心の動きを思い出させてくれる。他人に対する感受性をより豊かにしてくれる。これからも自分は高田渡の歌を何百回、何千回と聞きつづけるだろう。
今流通しているうたに違和感を感じている人にお薦めです。