五輪書 (講談社学術文庫)
小次郎との闘いの後武蔵は、もう闘っても、この武蔵を打ち倒せる兵法家はいないことが分ったのだろうか? だとすれば、まさに勝つべき、倒すべき相手とは、自分自身以外にありえない。不断に自己に克つということは、ひたすら自分を乗り越えていかねばならないという意思の厳しさを持たなくてはならないだろう。自分は自分を誤魔化せない。すべてが自己のこの克己心のために尽くされる。目的と手段は取り違えられてはならず、手段が目的化することがあってはならない徹底的な合理的精神で、武蔵の修行は裏打ちされている。自分が絶えず自分を乗り越えていくことは、形ある敵を倒すよりも遥かに困難な道であるに違いない。
この兵法の指南書は、あくまで兵法、剣の扱い方や敵の倒し方といった剣道の門外漢なら、あまりピンとこないような具体的なテクニック、ノウハウの委細が詰まっている。最初の「地之巻」だけでも読んでおきたい。
やはり巻頭の鎌田氏の解説がよい指針になるだろうし、現代のサラリーマンが読んで五輪書の精神を僅かなりとも自分のものにしようとするならば、この自己へのこだわり、執着ではなしに、むしろ逆に自己を放逸させていく、脱却させていくためにより自己を徹底的に見据えるパラドクスが生きられるかどうかにかかっているだろう。
「神仏を敬うけれども、頼みとしない」という生き方は、不二の関係にある。あるべき自己の理想の姿へと超越する不断の克己心と、自己しか頼むことができないからこそ、つねに現状を維持しようとする頽落の否定とは裏腹なのである。
集団の中でつねに生きている現代人にとって、武蔵の生き方は不可能事ではあるけれど、その理想はけっして古びることはないだろう。
武蔵は兵法の道に赴かなくとも、仏の道へ赴いていたであろうと、評者は思う。