神聖喜劇 (第1巻)
自己の生きている状況を「喜劇」として、観るというのはかなり力がいる。ましてや、「神聖なる喜劇」として 観ると いう立場を維持し続ける意志力。そう 観ることで 冷ややかに 自己の立場を 貫こうとしている。舞台は 敗戦間近 対馬。そこの日本帝国陸軍。
大西巨人という作家・・・大西巨人は 『神聖喜劇』を完成させた。奇怪なる 文体。その緻密な 世界は 彼の文体でないと 描かれないことに納得する。妥協しない 大西巨人。 私たちは彼の世界に屈して彼の世界に入り込まざるを得ない。そこは かって私たちが知ることができない未知の世界。全く 異なる 世界を 私たちは 見ることができる。大西巨人の『神聖喜劇』は そのようなもの。天才と言うべきか 奇才と言うべきか 私には わからず。
かって 私は『神聖喜劇』を 読み通す努力をした。彼の世界に入る儀式は大変であった。
今、大西巨人の『神聖喜劇』は いつ映画化してもいいように 脚本が 別の人によってきあがっている。
そして、粘り強く 漫画化した創造者がいたとは。おどろきと感動。新しい体験をしてみましょう。早く。
三位一体の神話(上) (光文社文庫)
「このミス」にもランクインした大西巨人の傑作ミステリー。当初から犯人はわかっているのだが、登場人物から、殺人動機から、謎解きにいたるまで全てに「文学」がからんでくる。膨大な数の文学作品が本作中に登場し、このてのものが好きな人にはたまらない作品。ラストの展開もある程度読めてしまった感があったが十分に楽しめた。
神聖喜劇〈第1巻〉 (光文社文庫)
第1巻から第5巻まで全巻を通してのレビューになりますが、この大長編小説に関しては様々な研究論文も書かれているようですが、一切読んでおりませんので、あくまでも私個人の感想に過ぎませんが、「これは、吉川英治の「宮本武蔵」のパロディなのではないか」との印象を強く持ちました。作者は、戦中の代表的な教養小説である「宮本武蔵」をパロディ化することで、日本人の情緒に支配された「非論理性」を乗り越えようとしたのでしょう。
主人公である東堂太郎は、宮本武蔵の「剣」を、「知識」と「教養」とに持ち替えています。東堂以外の登場人物についても、「宮本武蔵」の登場人物に当てはめてみると面白いです。たとえば、村上という人物は、佐々木小次郎。作中もっとも魅力的な登場人物である大前田は、沢庵和尚と宍戸梅軒ですね。
そこで思い出したんですが、内田吐夢監督の映画「宮本武蔵」5部作(1961〜1965年)で沢庵を演じていたのは三國連太郎さん、同じく吐夢監督の遺作であり「宮本武蔵」番外編でもある「真剣勝負」(1970年制作、1971年公開)で宍戸梅軒を演じていたのも三國さん。大前田は、若い頃の三國さんのイメージです。勝手な解釈で申し訳ありませんが、作者の大西巨人さんも、HP「巨人館」での「映画よもやま話」の中で、「内田吐夢の映画が好きだ」と発言しておられましたので。