四十八歳の抵抗 (新潮文庫)
とってもリアルで何とも、いえない小説だ。
熱海温泉、ヌード撮影会など時代がかっているが、人間の方はそれほど進化していない部分もあるのかもしれない。
唯一分からないのが、メフィストフェレスに例えられている曽我法介。彼は一体何者であったのか。何故、西村耕太郎の秘密を知っていたのか。わざと謎解きをしていないのかもしれないが、中途半端な扱いである。
金環蝕 [DVD]
山本薩夫監督の政界金権腐敗体質を暴く快作です。
過去ビデオで初めて見た時に「こりゃ面白いっ!!!」と
親にも見るように薦めたのを思い出しました。
今回DVDを購入し、改めて再見して思うことは、
昔も今も政界の体質って基本的に変わらないんじゃないだろうか、
ってことです・・・。
最後はマルサの女2と同じく、ちょっとやるせない
現実を感じさせる終わり方かも?
ストーリーはスケールが大きく、俳優陣も実に豪華。
政界のマッチポンプ役の三国連太郎のダム入札疑惑についての
証人喚問シーンはケレン味たっぷりの演技で見所の一つでしょう。
金環蝕 (岩波現代文庫)
生真面目で実直な登場人物が、意図し意図せざるして、汚職構造を作り上げていくさまを、丹念に描いている。緊張感と切迫感がありありと伝わってくる。組織を逸脱できない堅物な人間が陥る先を、抉り出すように描いている。骨太な登場人物は、山崎豊子『華麗なる一族』と双璧をなす。
青春の蹉跌 (新潮文庫)
僕は『青春の蹉跌』を日本版『罪と罰』だと思っている。ドストエフスキー『罪と罰』が殺人後良心の呵責に苦しみ更生する迄に重点が置かれるのに対し、『青春の蹉跌』では殺人迄のプロセスに重点が置かれる。詰り、前編が『青春の蹉跌』後編が『罪と罰』として1繋ぎのストーリーとして読んでみると面白いかも知れない。『青春の蹉跌』では司法試験に合格する程の頭脳明晰で計算高く野心的な青年が主人公であり、彼は司法試験に合格できる頭脳はあるが、司法試験のみで自分を万能な存在と錯覚してしまう。彼には文学や美術や音楽等や暖かい人間関係の中で得られる物といった包括的な人間性が欠如した為に、独善的に殺人を犯してしまうということがテーマになっている。この狭い視野しか持たない青年の犯行という意味では、『罪と罰』の主人公ラスコリーニコフが有能な自分が金を得るためには、高利貸しの強欲な老婆を殺しても構わない、自分はナポレオンになるんだという様な妄想を抱いた心理プロセスに似ている。
然し、ラスコリーニコフと江藤賢一郎の決定的な違いは、江藤にはソーニャがいないことである。ラスコリーニコフにはソーニャが居たことによって情緒的な繋がり、人間性と信仰という全人格的な感情を恢復することができた。だから出頭して罪を償い更生しようという勇気が生まれた。而るに、江藤青年はソーニャ的女性がいない点で悲劇である。或いは、弁当を拘置所に届けてくれる母親がソーニャになり得るかもしれないが、江藤は2人の女性から手厳しい裏切られ方をした。『青春の蹉跌』は1968年に公開された作品であり、『罪と罰(1866)』の様な帝政ロシアの時代から100年も経っている。1866年のロシアには、「貴方の汚した大地に接吻しなさい」というソーニャの言葉が示すような、ロシア正教的な宗教観やヨーロッパとアジアに跨がって領土を持つユーラシア主義的な背景があり、1968年の日本には、こうしたキリスト教的宗教観や帝国主義時代の時代背景は当然無い訳であるが、然しだからこそ、日本人に依る日本人を読者とした『青春の蹉跌』の方が『罪と罰』よりも日本人に訴えてくる物が在る。例えば、戦後日本の、詰め込み型教育の欠点や厳しい受験戦争等に依るストレスによる弊害を予感させる物が在る。
『青春の蹉跌』の作者石川達三は『蒼氓』で第一回芥川賞を受賞した。興味深いことに、この時、太宰治は芥川賞に応募して落選しているのである。然ういう意味で石川達三は太宰治の将来性の犧牲の上にこの作品を作り上げた事になるが、太宰治『人間失格』のライバルとしての石川達三『青春の蹉跌』を相互に補完して読んでみるのも面白いと思う。